子どものころ

本を読むのが楽しい。たまらない。

川上未映子さんの「安心毛布」というエッセイを読んでいる。


『子どものころはしかしよく雨に濡れていて、服を着ていても、靴を履いていても、

雨に濡れることがそんなに迷惑なことでもいやなことでも不都合なことでもなんでもなかった。

服を着ていても、靴を履いていても、ほんとうの意味で物なんて、なにもひとつももっていなかった、

そういう時代であったのだな。それはきっと物だけじゃなくて、電車にのらず、

お化粧なんてもちろんせず、濡れてしまう不都合な目的地を、行き先を、友達を、何もひとつも、

もっていなかった。あれはそんな時代であったのだな。靴の中で踏む雨水の感触。

前髪からしたたってくる雨のみちすじ。オレンジ色と夕暮れと金色がすこしずつ混じってたなびいて、

やがて太陽を沈めてしまうあの匂い。』


『そして子どものころのわたしは、とてもそちらがわ、そうだ、雨あがり鮮やかに輝いてみせて、

その輝きに何の説明も躊躇も必要としないでよかった光のがわ、

ただ光っているものがただ光っているだけの時間、そこで手を伸ばし、笑い、

走ったり泣いたりして、ただそれだけを生きていた、そんな時代があったのだな。』



この「ぼくはもう、うきうきしない」の章を、近所の本屋で読んで、あー、買うつもりじゃなかったのに、

と思いながら買って、また電車で読んだ。同じところを何度も、何度も。


わたしは子どものころの記憶があんまりない。普通なのかな。わからないけど、わたしはあんまりない。

鉄棒が大の得意やって、見て見て、とくるくるまわれるのを見せびらかしていたことと、

手のひらはいつも血豆だらけやったこと、

スカートしょっちゅうやぶってしまってそれもいつもどうやってごまかそうかと考えていたことと、

鉄棒のまわりにあった木でできたブタの遊具のこと。(今はもうない。鉄棒もない)

毎日なにをしてたか思い出せたらいいのにと思うけど、そんなに思い出せへん。鉄棒中心にしか思い出せへん。



わたしは子どもをうらやましいと思ってた。子どもが好きというのとはまた違うと思う。

何が、というと、答えるのはむずかしかったけど、読んで、これか、と思った。



このあいだの祝日、久しぶりにおねえちゃんちに行ってきた。

久しぶりといっても、おねえちゃん達は1月に引っ越ししていて、初めて新居に行った。

(全く手伝えてない。ごめんね)

もうすぐ6歳になる甥っ子が来週卒園式らしく、髪を切ってと頼まれていたから行った。(卒園式の日が誕生日)

いつもいやがって、しまいにはしくしく泣いていた甥っ子も、

ゲームをしながらだと、じっとしていた。

おねえちゃんは、「もう卒園やで、さみしいわー」と言ってた。

どんどん大きなる。


甥っ子はずっとわたしのことを、ねえね、と呼んでいたけど、だれか、に変わっていた。

「なぁ、だれか遊ぼうよう」

「だれかってだれよ」

「えー。だれかはだれかー」

と、えへへと笑ってた。くねくね。

何して遊ぶん? と聞くと、しんけいすいじゃく、と言うから、

いやや、また今度な、と言って帰ってきてしまった。

悪いことしたかな、と、今思った。