「十三歳の夏」

ずっと、乙骨淑子さんの「十三歳の夏」を読んでる。


『家は人が住まぬと死ぬ、と利恵はおもった。

 庭の草花に水をやらないと枯れるように、

 鳥かごの小鳥にえさをあたえないと生きていられないように、

 住む人がいないと家も死ぬのだ。

 人間が冬には寒さをふせぐために、衣服をたくさんつけ、

 夏には汗のついた体を洗って、きちんと身づくろいをして、

 毎日を生きているように、家にもそうしたものが必要なのだ。

 おばあちゃんは、毎朝早く起きて、戸袋を水洗いし、敷居のさんをみがきあげ、

 羽目板まで洗っていた。軒下のわずかな土地に草花を植え、花を咲かせていた。

 そうすることによって、家は胸をはって、ほがらかに生きていたような気がする。』




『「こうやってね、ネギなんてきざんでいてね、これ、やがて食べるでしょ」

 「あ、きまっているじゃない」

 「そうすると、ネギはおなかの中にはいるじゃない」

 「あったりまえだよ」

 「そして、明日にでもなるとでてくるじゃない」

 「いやだな、リイ坊、なにいいたいんだい」

 「でてきたのをみて、なにか感じない」

 「感じるもんか。くさくってしようがないよ」

 「そうかなぁ、わたしはね、でてきたのをみるとね、

 あ、ネギはおなかの中をみてきたんだなあとおもうよ。

 それでね、わたしもネギになって、じぶんのおなかの中をみたいとおもうよ」』




『「おれはだな、ネギになっておなかの中をみたいとはおもわないけど、

 なんてまあ、胃というものはうまくできているもんだとおもうよ。

 みんなはいっちまうんだもんな。これがさあ」

 皿の上に山とつまれたてんぷらを、さぶにいちゃんは指さした。

 「ほんとダ!」

 利恵はふりかえり、大きくうなずく。

 「人間の体ってうまくできているねえ。舌だってちゃんとあるしさ。

 おいしいなあーって感じることができる舌があるなんて、なんていいんだろ」

 「ほんとダ、ほんとダ」』


なにこれ、と思った。ふう、となった。



牛乳を鍋であたためて作る、ミルク出し茶というやつが最近好きで飲むのだけど、

家に人がいると、「くさい」と苦情がでるので、誰もいない今飲んでる。

せっかく思う存分飲めるのだからと、二杯も飲んだらおなかが苦しくなった。

上の文章とは関係ない話。