海のふた

よしもとばななさんの「海のふた」が、すごく好きで、

単行本も文庫本も両方持っている。買った。また今読んでいる。


この本を知ったのは、二年くらいまえに、なおちゃんから、

「最近、よしもとばななの「海のふた」っていう小説読んで、めっちゃよかったんやけどな、

これ読んで、ふっちーを思い出してん」と言ってもらったのがきっかけ。

わたしは、えーなになに、と、早速読んで、まず冒頭からもう完全に持っていかれてしまった。



『キジムナーとかケンケンとかなまはげとか、遠い外国のホピ族のマサウも……

 人のいるところに近いところにいる神様たちは、みんな恐ろしい外見をしているみたいだ。

 ぎらぎらした目だとか、牙だとか、赤い色の体だとか、武器を持っているとか。

 それは、きっと身を守るためでもあるけれど、なによりも、人の心を試すためなのだろう。

 その見た目をのりこえてきたものだけが、その繊細な魂の力に触れることができるから。

 子供はその姿をはじめ素直にこわがり、そしてその分だけ素直にその形を受け入れることができる。

 はじめちゃんもどこかしらそういうふうな、魔術的で神聖なところがあった。

 私はもう子供ではなかったのに、どうしてはじめちゃんの世界にあんなにすうっと入っていけたのだろうか。

 人と人が出会うとき、ほんとうは顔なんか見ていないのだと思う。その人の芯のところを見ているのだ。

 雰囲気や、声や、匂いや……そういう全部を集めたものを感じとっているのだと思う。

 はじめちゃんの芯のところは、全くぶれていなかった。たいていの人が何かしらあいまいなところを

 印象のなかに持っているのに、はじめちゃんはただただすっとまっすぐで、少しかげりがあって、

 とても強い感じがした。』



とまらなくて、いっぱい写してしまった。

最後まで読んでも、どうしてわたしを思い出したのかはわからないけど、すごくうれしい。

うれしいから、いつまでも思い出し続けるし、言い続けるし、うれしがり続ける。




たまにわたしのことを、思い出しててん、と、言ってくれるひとがいて、

けっこう、じーん、とにやにやうれしく思うのは、なんでやろうね。


おとといも、つるちゃんに会って、

(つるちゃんはわたしの前の職場の同期で、今はおねえちゃんとふたりで、地元で美容室のお店を出している。

ちなみに、つるちゃんのおねえちゃんとわたしは、同じお店で4年くらい働いていたから、

つるちゃん姉妹ふたりとも、わたしはよく知っている。双子みたいによく似た姉妹)


「たまに、ねえちゃんとふたりでふっちーのこと話してんねん。

なんか動物の話になったら、ふっちー元気かなー、て、言うてんねん」と言ってくれる。

「元気やで」って言うと、「見たらわかる」と言われる。

元気に見えんねんや、と思う。つるちゃんも元気そうやった。

「ねえちゃんが、ふちのさんが金魚死んだって言って、店で泣いてたことあったでって笑ってたで」と言ってくれる。

金魚が死んで、泣いたことがあったかは覚えてないけど、

アカヒレという魚を飼っていて、死んでショックだったことは覚えている。

ひとり暮らしの部屋で、アカヒレが大暴れして死んでいくのをひとりで見ていた。

多分それのことやと思う。


ああ、そんなこと覚えてくれてんねんなぁと思った。

わたしも思い出したら、思い出したこと、みんなに言おうと思った。

こと細かく言おう。

ほんで、この日記にも、前に書いたけど、つるちゃんに貰ったМDを最近聴いたこと、つるちゃんに言った。

そしたら、今度はCDを送ってくれるらしい。なんと。

なんかいつも貰ってばかりになってしまうけど、やっぱりうれしいから、待ってる。