はさみケースとはさみと

前髪をざくざくと切った。

またみじかく切りすぎたかも、と思いながら、はさみをしまおうとして、

いつものはさみを入れているケースの裏地の赤い色が目に入って、

いつもなら何にも思わず、ちゃちゃっとしまってお風呂に入るのに、

今日は、ああ、はさみがたくさんあるなぁ、

このはさみ、今はわたしの前髪を切るときにしか使ってへんなぁ、と思った。


大きなふでばこみたいな形をしたこのケース、

表は、キルティングの生地みたいに縫い目がある合成の黒い革で、

中は、ピアノの鍵盤の上にひいているあの赤い布みたいな生地で、

だから髪の毛がいっぱいつく。

今も髪の毛がいっぱいくっついている。

ずっとこれを使っていたから、中はぼろぼろで、

はさみをとめておくボタンも全部こわれている。


はさみはとても高かったから、少ないお給料のなかから、毎月1万円ずつ月賦で支払った。

その時、ついでに、はさみを磨いでくれるので、

暇なとき、磨いでいるところを、そばでじっと見ていたら、

「あんた、子どものころわんぱくやったやろ。

これ、興味津津に見るひとは、わんぱくな子が多いんや」と言われた。



わたしがはじめて人間の髪を切ったのは、おかあさんだった。

なにせはじめてなもので、きっと緊張していて、

ウィッグで練習していたときに使っているはさみではなくて、

間違って少し長い刃のはさみをつかってしまっていて、

いつもと違う感覚だったせいか、思いっきりゆびを切ったのだった。

どくどくと血がいっぱい出てきて、すごく痛かった。

絆創膏をはっても、それもすぐに真っ赤になった。

しかも、おかあさんは癖が強くて、切るたびに、ぴやん、ぴやん、と跳ねて、

泣きだしそうになるくらいむずかしかった。

どくどくどくどく、ぴやんぴやん、だった。


それからずっとおかあさんの髪はわたしが切っていた。

おかあさんはいつも、どうなっても、「ありがとう」って笑って言った。



はじめてお客さんの髪を切ったのは、安田さんという人だった。

覚えている。

まだまだ練習も足りなかったけど、指名してもらえて、

マネージャーに「いけ!がんばれ!」と言ってもらって、いったのだ。

電話をもらって、来店されるまで、お店のなかと休憩室をうろうろした。

とてもどきどきした。



それで今、このはさみのケースを見て、いっぱい思い出した。

レッスンしていた閉店後の店内とか、

タイに行ったとき、あの茶色いワゴンに載せていたこととか、

肩からがたがた震えるくらい緊張したあのコンテストのこととか、

なんか急にぶわーっと思い出した。

それで、わたしは、ああ、もう美容師せえへんねんや、と思った。

なにをいまさら、だ。

でも、もうせえへん。それはわかる。



というか、なんやろう。

あっこにおった7年間くらい、わたしのなかで、今、ないもののようになっていて、

でも思い出して、ああ、おったんや、って思った。


おったわ、わたし、おった、って思った。